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2017-03-24

大城 幸司|前編

昔の琉球絣の反物を見ると、すごくおおらかに織られてる。
なのに、とてもぐっとくる。

布人_大城幸司 [丸正織物工房]
取材人_アイデアにんべん

機織りの音で目覚め、機織りの音を子守歌にして育った。
でも、でもそれらは日常の風景でありすぎたゆえに、
子どもの頃は、特別なことだと思うことはなかった。
3人姉弟のうち唯一東京に出た末っ子が気づいた、琉球絣への誇り。
織り、染め、括りを一から学び、
反物では表現できないストールのおおらかな織りで、琉球絣を発信している。

 

丸正織物工房は幸司さんで何代目ですか?

おじぃとおばぁから数えて、ぼくで3代目になります。おばぁが今年カジマヤー(97歳)。一昨年まで織りをやっていて、ぼくは5年くらいいっしょに仕事をしています。おやじとおふくろも職人です。

 

では、生まれた時から機音を聞いていたんですね。兄弟はいますか。

朝は機織りの音で起こされて、昼寝もこの音で。おばぁも朝は6時になる前くらいから織りはじめて夜11時くらいまでずっと整経をまわしていました。
姉と兄がいて、二人は違う仕事です。ぼくだけが学生時代東京にいて、その時までは機織りは日常の風景なので特別なことをしているとは思ってなかったのが、外に出てそれが特殊なんだなと気づいて。

 

特別なものだと気づくきっかけがあったんですか?

東京の友だちが沖縄に遊びに来て、おばぁが織ってるのを見てすごく感動してたんですよ。東京でめったに見られないよっていう話を聞いて、ちょっと鼻高々に。はじめて機織りの仕事に誇りを感じました。それから、おふくろに織物ってどういうものなの?と話を聞いて、少しずつ興味をもって。当時から織物は減少傾向にあったので、姉から「若い人が入って活性化させたほうがいいんじゃないの?」と軽い気持ちで言われたんですよ。それを真に受けて…。資料を東京に送ってもらって、勉強しはじめた。
就職は超氷河期で、継ごうかなと言っても、もともと織りは女性が家で織るというような内職で、うちも織子さんが2人か3人くらいの工房だったので。今継いでも食べていけないから止めておけと。でもあまり遠すぎない仕事を探そうと思って、アパレルの会社に入社して、2年くらいして沖縄に帰るきっかけがあったので、それからこの仕事をしています。

 

 

遠くない仕事といっても、多分けっこう遠いですよね? アパレルの世界から来て衝撃的だったことは?

ファストファッションと真逆の世界なので。あの業界からこっちに来た時には衝撃でしたね。実際にやってみると、今まで見ていた部分よりももっと作業量が多かった。ぼくが見ていたのは表面に過ぎなかったんです。機にのるまで30工程くらいをふむので、それを1から体験してみると、気が遠くなりそうでした(笑)。糸がからまったら、ほどくのに一日くらいかかるんです。これ、いつになったら反物できるのかなとか。
アパレルは毎日のように何千ピースと入ってきます。
それと、当時値段をあまりに安く付け過ぎていて、これだけしか手元に残らないの?というのもありました。

 

ひと通り習ったんですか?

南風原は沖縄の他の織物の産地と違って分業制なんです。大きく分けて、括りと染めと織りの3つがあるんですけど、これからは全部自分でできないと食べていけないよというのを両親から聞いていたし、一人でもこの仕事ができるように、織りから始めて、染め、括りという風に。

 

織り、染め、括りという順番は?

最初にできるのが何かといったら織りでした。音のリズムは子どもの頃から聞いていて。リズムってやっぱり大事なんですよ。機の音でどの織子さんが来たかもわかります。括りの音でもハサミをパチンパチンと切るリズムで、この人は上手なのかなというのがわかる。
ある時、おばぁはこっちで織っていて、ぼくはあっちの部屋で織っていたんですけど、ぼくがはかどっていないとおばぁが「糸がおかしいのか?」と見に来る。ぼくの音がおかしかったんでしょうね。おばぁのリズム、おふくろのリズムに近づけるように織りはじめたという感じでしたね。
おふくろは括りができない。おやじは括り専門。なので染めがいたら、括り、染め、織りがひとつになって、オリジナリティあるものができるようになるので。織りの次は染め。
括り手も少ないので、習ったんですけど、おやじは職人なのでちゃんと教えないですよ。めちゃめちゃ怒鳴る。見て憶えて。括りの研修で組合の先輩たちに教わったら、順序立てて教えてくれて。おやじとやってたことがぱーっとつながって、よりいっそう楽しくなった。そこからですね、図案もやりはじめて、整経もやって。
ぼくしかやらないのは染めだけですね。けっこう力仕事なので。

 

 

沖縄の織物の産地では珍しいと思うのですが、南風原はどうして分業なのですか?

沖縄の織物の産地のなかで戦後の復興が一番早かったのは南風原なんです。
はじめ、島豆腐をつくる白い生地とかを織って。戦後は糸がないので、靴下とか落下傘のロープをほどいて織ったり。その後毛糸とか。県内で使う分が間に合わなくて、どんどん量をつくるようになって、男の人も入って、工夫していっての分業制だと思います。
おばぁが言うにはそれまでは農業中心にやってたんですけど、機織りするようになって女の人はすごく楽になったと言ってました。それでみんな織りをするようになって。

 

南風原の琉球絣の魅力を幸司さんはどう捉えていますか?

多様性です。柄も600種くらいあるんですよ。南風原の琉球絣といっても、夏物、紬、単衣、平絹の踊り衣装、花織もある。分業制で量も多いので個人の作家のかたよりはコストも下げられるから、手織りものでいったら、いちばん買いやすいのは南風原の織物かな。南風原のなかでもピラミッドがあって、藍染めの絣や、草木染めもありますが、今は化学染料が主体で、同じ手織りでも買いやすい値段。手織りの入門として入りやすいというのが南風原の魅力なんじゃないかな。

 

機械化はまったくしていないんですよね?そこが不思議というか、全国の産地を見ても、そんな地域は他にはないですよね?

そうですね。大量生産といっても大量生産じゃないんですよね。染めと糸巻きの機械が入っているところがあるくらいで。うちはまだ鍋なんですけど。その他に関しては機械は全然入ってないですね。
全国的にほぼ機械が入っていて、純粋に100%手織りというのは沖縄くらいなんですよ。

 

過去に機械化しようとはならなかったんですか?

なったみたいなんですけど、機械を入れるにもお金かかる。昔の工房は試したみたいなんですけど、うまく機械化できなかったみたいです。
他の産地を見に行きましたが、機械を入れると、機械のエンジニアにならないといけないんです。また一から勉強というか。
多い産地では16反分くらいかけて、同じ柄が16反できるんですけど、うちはマックスで8反分。しかも3反ずつくらい色を変えたりもする。

 

 

 

1年に8反というと柄を決めるのもより重要になっていくと思うんですが、どうやって決めていくんですか?

柄は御絵図帳(首里王府の絵図奉行の絵師たちによりまとめられた絣の図案集)をもとに、この柄とこの柄を組み合わせようかなという感じでデザインします。編集作業に近い。新しい柄つくろうというのもあるけど、御絵図帳に600もあるので、まだ使ったことのない柄もあるんです。新しい柄の前にもうちょっとこれをつきつめていきたいなというのはある。
産地によってはどんどん新しい柄ができるらしいんですね。「過去は見ない」と。沖縄は反物を見ただけでも琉球ものってわかるんです。それが特色でもあるんです。沖縄らしさがずっと残ってるというか。ここは変えなくてもいい部分なのかなと最近思うようになってきて。
トゥイグヮー(小鳥)の柄ひとつとっても、これどこの工房だなってだいたいわかります。工房の特色がけっこう出るんですよ。

 

よく織る柄はありますか?

ヤタマージュージ(八玉十字)、ゴーマーイ(周りを囲むもの)は定番でずっと使ってますね。最近はビーマー(ハサミ)柄、マユビチ(眉)…。昔は十字とトゥイグヮーとかいろんなのを混ぜてつくってたんですけど、最近マユビチだけでやったりするんです。単品使いでどこまで表現できるかなって。今まで組み合わせていた柄を抜いて、シンプルに。
足すことも大事だけど、ぼくはどっちかというと引いてきました。どんどん柄を抜いていくという作業をしましたね。縦だけの絣とか。
最初はおばぁやおやじとケンカしましたよ。「なんでこんな簡単なのやる?これじゃ売れんよー」って。おばぁはこんなに間を開けたら、ぬぬさぁあらん(布職人じゃない)と言うんですよ。
色味もトーンを落とすと「絣が見えないんじゃないの!」と言うんです。極端な話、見えなくてもいいよ、ほんのり見える感じにしてみようって。

 

複雑な柄の方が喜ばれるとか、高く売れるのでは、という心理ですか?

そうとは限らないと思うんですよね。ぼく、図案を描いていてわかったんですけど、職人って「間」を埋めたがると思うんですよ。不安だから。図案描いていると、不安になるんです。寂しいかなとか、トゥイグヮー入れようかなとか。

 

 

遊び心じゃないんですね。

遊び心を感じるのもあるけど、間を埋めたと感じるものが多いんです。この柄だけでいけるかな。じゃ、十字も入れようかなとか。で、だんだん埋まってきて総柄にすると安心。ぼくの考えでは総柄も大きさや柄の選択だとかバランスが大事で。それを再編集しようかなと思っています。

 

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布人 大城 幸司

明治大学政治経済学部政治学科卒業後、3年間服飾業界で働いた後、2009年祖父母が営む丸正織物工房で働く。かすり反物の生産者が減少していく中、伝統にこだわり古典的なかすり柄を得意とした工房の三代目として暖簾を背負う。2012年美しい機(はた)の音を南風原の地から絶やさないよう、「かすりロード盛り上げ隊」を結成し事務局長を務め、月に一度の清掃活動や南風原町観光協会と工房見学ツアーを企画。2016年90回国展 入選。

丸正織物工房
〒901-1112沖縄県島尻郡南風原町字本部31 
Tel 098-889-6288 Mail marumasa.fabrics@gmail.com

 


 

取材人 アイデアにんべん

「聴く」「考える」そして「伝える」のが仕事。
パンフレットやパッケージの企画制作、
編集などを承る事務所を読谷村で運営し、
日本の端っこで、日々、小さな声に耳をすませています。


 
http://idea-ninben.com

 

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