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2017-03-24

大城 拓也|前編

沖縄らしい布って何だろうってずっと考えてました。
20代の頃は技術、30代は模様かなと。
今は、人なのかなと思ってるんです。

大城拓也 [ぬぬ工房] 
取材人_アイデアにんべん

「琉球本藍デニム」は「琉球絣」以上にその名を世に知らしめた。
だが今、大城拓也の心の多くを占めているのは、
祖父・大城廣四郎が「織れる人はもういない」
と言っていた昔の琉球絣だ。
沖縄らしい布とは? 20代からずっと考えてきた答えは
30代を経て、40代になり、変化してきた。
ゆらぎのなかで、向かおうとしていること。

 

実家の大城廣四郎工房での仕事以外に「ぬぬ工房」をはじめたきっかけは何ですか?

20年近くやってますけど、実家では反物と帯が中心です。
東京の大塚テキスタイルデザイン専門学校に通ってテキスタイルを習って、沖縄に戻ってきて7年くらいおやじのところで働いてたんですけど、その時20代だったので、着物は着ない。友だちに説明できないし、自分たちが着るものでなんかつくれるものはないかって。
身近なのは木綿と藍染め。もともと南風原も40年前くらいは木綿絣をつくってたんですよ。ぼくがはじめた頃で半分くらいになってたので、その時、澤地久枝さん(ノンフィクション作家で『琉球布紀行』著者)がいらして、木綿の藍染めを復活させなさいってことを言われて、そうだねって。ぼくらが付けてる服も全部木綿だしっていう感じからはじまったんです。

 

どうして南風原は琉球絣の産地に? そしてなぜ絹になっていったんですか?

昔、沖縄で絣の産地は小禄、垣花ですよね、南風原はそのアウトソーシングの工場だったんですよ。戦前、大きい工場がここにふたつあったんです。そこで地域の女性たちがはたらいていて、そこにうちのおばあちゃんもいて。で戦争があって、着るものを織りはじめたのが産地のはじまりですね。
同じ手作業でも価格帯が全然違うので、絹のほうが価格帯が高い。京都の呉服の潮流にのまれたっていうんですかね。シフトせざるを得なかった。

 

南風原の作り手には男性が何人もいますね。

廣四郎(祖父)が男性で機織りをする第一人者という感じで。戦後すぐの頃は隠れて織ってたみたいですけど、それをずっと横で見てこの仕事をしてたので、ぼくも織りたいなって。

 

作り手にとって男女の違いというのはありますか?

男性が織っていいのはデニムを織った時に力強く打ち込めることや、染めの作業が男性に向いていたり。あとは変わらないですね。
この人は新しいものを織らすほうがいいとか、この人は呉服だねとか、絣が得意な人、花織が得意な人。その人の力量という感じがしますね。

 

子どもの頃から絣に興味があったのですか?

全然。高校時分に絣をはずす作業とかバイトみたいにしてたんですけど、何をやってるかわからず、ただ言われた通りにやってただけ。おじいちゃんにおまえは大学行かんでいいと言われて、受験をあきらめ、2年くらいフリーターみたいなことをしてたんですね。その頃、何度か家出をしてたんですけど、19の頃に帰ってきて、おやじが東京に行きたいんだったら、おれがすすめる学校に行け、と。テキスタイルの学校を見つけてきていて、そこに行くんだったらいいよ、だけど辞めてくるんだったら2度と帰ってくるな、と。
おじいちゃんとかおやじがやってることが有名なので、学校でも名前は知られてたんですよ。サラブレッドが来たぞみたいな。だけどまったく興味なく、でも、はじめたらおもしろかったんです。
その学校自体が三宅一生さんのサンプルづくりをするみたいなところで、その頃、PLEATS PLEASE(プリーツプリーズ)を研究してたので、最先端のことを手作業でやってるみたいなことがおもしろかった。

 

 

 

兄弟はいるんですか?

姉は廣四郎工房の事務、妹は全然違う仕事です。機織りの勉強もしたんですけど、興味なかったみたいで。
おやじは継がしたかったんだとは思いますけど、継げとは一言も言わなかった。おじいちゃんも好きなことをやりなさい、と。
おじいちゃんはデニムに関してはじゃんじゃんやりなさいって。親父は大反対。

 

で、ぬぬ工房を立ち上げた?

そう。実家の工房とは見に来るお客さんが全然違ったので。

 

デニムで最初は何を?

絣デニムですね。手織りなんでやわらかい。できあがった頃に石垣昭子さんからの紹介で、南風原におもしろい織りをやってる子がいるよって、ビームスさんがいらして仕事がはじまったっていう。

 

何にしようというわけでもなく?

はじめからデニムをつくろうっていう感じではなく、澤地さんに言われた通り、木綿の藍染め絣をつくろうとしました。でも木綿の無地の藍染めをやってもおもしろくない。琉球の伝統は1ミリずつずらしていくずらし絣というやり方で、芭蕉布も、首里織も、南風原以外は織る人が柄をずらしていって模様を出す。でも南風原の絣は絵図式なんです。絣を織る時に耳印をもとにして、柄がきっちり合うようにしていく。種糸というのをつくって耳を合わせるとこの模様が出てくるっていう絵図式。耳に白い線がちょろちょろ出るのがいやで、偶然、白糸を入れてみたんですよ。そうするとこの感じがデニムっぽく見えた。それで無地を織ってみるとさらにデニムっぽく見えたので、楽しくなったんですよね。
斜文織というデニムの織り方で織ってます。

 

 

絣デニム初の商品は?

はじめ生地販売をしたんですけど、ビームス自体が生地販売のノウハウを当時持っていなかったらしく、それを2年後くらいにジャケットにしたんですよ。そうするとばーんと売れ出して、それが最初ですね。
天然、手染め、手織りにこだわって、糸もオーガニック。価格を下げたくはなかったので、価格帯は着物と変わらず。

 

手に入りやすくするために価格を下げる工夫をする人もいますが、突き進んだのは?

立ち上げの頃はとても悩んだんですよ。価格帯が一番のネックになる。どうしてもファッションでやりたい。機械で織らないといけない。だけど、琉球藍の手染めにしたい。いろいろ試行錯誤したんですけど、糸を機械に乗せる時から形が違うんですよ。チーズ巻といってチーズ状に巻かれた糸を使う。沖縄では綛(かせ)染めしかできないので、それをまた綛にしなおしてという工賃がかかって、染めて戻して送料かかって、またチーズに戻すという。あまりに手間がかかったんですよね。でも10年後、15年後は、工芸に戻るっていうスタンスだったので。手織り、手染め、プリミティブなことをやりつづける方向で、ぼくらなりに技術を上げて、価格帯をどう下げられるかっていうところを勉強していこう、と。15年くらいやりましたかね。

 

広げ方、伝え方がうまいのは意識してのことですか?

結果的だったんですよね。ビームスの人が来た時に、ビームスのビルディングに入っている会社の人だと思ったんですよ(笑)。商売がはじまると全然思っていなくて、自分たちで着ようぜっていう感じだったんですけど、着ることもできず、ばーんとそのまま商売になったんですけど。ほんと偶然ですよ。世界中の人がデニム好きだし、可能性が広がるんじゃないかって。

 

 

 

染料のなかでも藍への思い入れがあるんですよね。

おじいちゃんが琉球藍にこだわっていて、伊野波盛正(いのはせいしょう)さんとも大親友だったんですよ。
戦後、行商に那覇に来た時、帰りまぎわの売れ残りをおじいちゃんが全部買ったらしい。その時代から、いい藍も、悪い藍も、ごちゃまぜにして、藍立てをして、藍にこだわったものづくりをしていたみたいで、そういのを小さいころから聞いていて。
その頃から藍だけは60年枯らしたことがないんですよ。その思いがあって。
やりはじめたころは木綿の感じが好きだったんですよ。きらきらしているブルーも好きですけど、マットなブルーがすごい好きで。

 

アパレルの人と関わって感じることはありますか?

合理的なことがおもしろかったですね。
リーバイスのデザイナーがあのパターンにしたのは、ジーンズの形は生地を無駄にしない裁断になっていて、ほんとに端切れがちょこっとしか出ないらしい。
そういう考えは手織りの布には合ってるなと。そういうところを盛り込んでいきたいなっていうのはあった。
最先端の技術を手作業に持っていくにはどうしたらいいんだろうかと考えるのもおもしろい。

 

 

 

デニム以外は?

加工品までつくれないんですよ。加工品の業者もいろいろ探したんですけど、ロット数が合わなかったり、それをいかに流通にのっけるかっていうのが課題だったんですけど、それもできず。布で完成するショールとか、ぼくらが考える着物の提案とかやってましたけど。
常に新しいことをやろうっていうスタンスだったので失敗ばっかりですよ。
でも、どんどん手は速くなっていったし、着物でタブーとされていたこともやっていたので、これを着物に還元していったらおもしろい着物もできていくんじゃないのかな。

 

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布人 大城 拓也

戦後琉球絣の復興と発展に尽力した巨匠、大城廣四郎の孫であり琉球藍染と絣の後継者。大塚テキスタイルデザイン専門学校卒業。2001年東京のセレクトショップ「BEAMS」にて琉球本藍デニム・ジャケットを発表。Michiko Koshinoブランドの「Yen Jeans」で琉球本藍デニムを発表。現在「大城廣四郎織物工房」勤務の一方で自らの工房、「NUNU workshop」で琉球藍や伝統を踏まえて今に生した織物を制作している。PAIKAJIとは2015年から「琉球藍染・PAIKAJI BLUE」でコラボレーションをスタート。

NUNU workshop
〒901−1112沖縄県島尻郡南風原町字本部45 
Mail nunu@nirai.ne.jp

 


 

取材人 アイデアにんべん

「聴く」「考える」そして「伝える」のが仕事。
パンフレットやパッケージの企画制作、
編集などを承る事務所を読谷村で運営し、
日本の端っこで、日々、小さな声に耳をすませています。


 
http://idea-ninben.com

 

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